年中夜長を望む人の憤り

重い想いを思いのままにつらつらと

空気を読む、という風潮について

「空気を読む」を見直したい

空気を読むという行為について、

といった風潮が見られる。

空気を読むことは面倒だと思われたり、イヤなこととして捉えられることが多いと思う。「空気を読む」はもっと良いことなんだと言いたい。

そもそも、「空気を読む」とは何なのか

空気を読むという行為は、「その場にいる周囲の人々の様子から、皆の意見が何であるかを察すること」と言えるのではないか。

その「空気を読む」が苦手な人を「KY」と呼び、これは2007年に流行語にノミネートされるほど話題になった。

Googleトレンドで「場の空気」に関するトピックを見ても、2006年くらいから徐々に火がつきはじめ、2007年をピークに話題になっている。

googleトレンド

 

 でも、よくよく考えてみると、周囲の人々の「様子」から「意見を察する」とは、誰もができるのが当たり前で、できないことは「KY」と揶揄されるほどのことなのだろうか?

「様子」から「意見を察する」とは、もはやテレパシーの領域のことなのではないだろうか?

日本人はなぜ空気を読むようになったのか

では、そんなテレパシー領域である「空気を読む」ことを、日本人はなぜできるようになったのであろうか。

私は、その理由のひとつは「識字率」にあると思っている。

 

 江戸時代、「寺子屋」や私塾によって、日本は高い就学率を誇っていた。

当時の欧州における先進国にも引けをとらないほどである。

そして、「文字によるコミュニケーション」が生まれ、「行間を読む」という文化が形成されたのではないだろうか。

 

「行間を読む」ということは、全ては書かないということであり、意図を汲み取らなければならない。

これって、よく考えたらすごいことなんじゃないかって思うんですよ。

「書かれていないことを読み取る」って、もはや暗号なんじゃないかって。

 

で、この「行間を読む」という行為が「空気を読む」に転化していったんじゃないかと。

 

「空気を読む」とは悪いことなのか?

さて、この「空気を読む」ということについて、冒頭の通り良くない印象を持っている人も多いのではないだろうか。

空気を読むことを「暗黙の了解」「見えないルール」と捉えれば、

  • 煩わしい
  • 面倒
  • 日本人特有

となり、「カラを破れ!」「自分を持て!」「ムードブレイカーこそ至高!」「これだから日本人は…」みたいなことになってくる。

 

 

でも、本当に空気を読むことは悪いことなのだろうか?

 

「空気を読む」ことができるようになったのは、「行間を読む」という行為ができてこそのことであり、行間を読むためには文字によるコミュニケーションができる必要がある、ということなんじゃないか。

 

 だとすれば、空気を読むことは「非常に高度なコミュニケーション」ということになるのではないだろうか。

 空気が読めないとどうなるか

では逆に空気が読めないとどうなるのだろうか。

空気が読めないということは、「行間が読めない」ということ。

もしかしたら、識字率の高低も関係してくるだろう。

 

「行間が読めない」「識字率も高くない」となると、全てのコミュニケーションを「声に出して行わなければならない」。

細かなニュアンスを含んだ言葉では、行間を読み取ることができないために伝わらず、はっきりとしたコミュニケーションが求められるだろう。

 

つまりは、

  • YES / NO を含んだはっきりとしたコミュニケーションを
  • 全て声に出して表現する

ということになる。

 

「日本人特有の同調圧力」と毛嫌う人たちが、好んで例に出す「欧米的な(アメリカ的な)コミュニケーション」ができあがる。

 

「空気を読む」の真髄は何なのか

では、「空気を読む」とはいったい何なのだろうか。

「空気を読むとは行間を読むことであり、それは高度なコミュニケーションで、ほぼテレパシーに近い」

これが、本稿でしきりに書いてきたことである。

 

では、テレパシーとは何なのか。

テレパシー

テレパシー (Telepathy) は、ある人の心の内容が、言語・表情・身振りなどによらずに、直接に他の人の心に伝達されること[1]で、 超感覚的知覚 (ESP) の一種で、超能力の一種。 mental telepathy の短縮形。漢字表記では「精神感応」とも

 

テレパシー - Wikipediaより引用

 

Googleで検索すると、

テレパシー

と出てくる。

 

つまりは、

「相手の心情を感じとる」

これが、「空気を読む」の正体と言え、

それは、「相手のことを慮る」と言い換えることができるのではないか。

 

 

「空気を読む」が悪者になった理由

「空気を読む」という、

  • 声・文字を上回る、高度なコミュニケーション
  • 相手を慮る行為

であるならば、なぜ悪者になってしまったのだろうか。

 

空気が読めないことを「KY」と罵りながら、

空気を読むことを「同調圧力」と嫌悪する。

この矛盾は「空気を読む」への誤解から生じる、自身の価値観の押し付けと考える事はできないだろうか。

 

すなわちは、「KY」と罵るのも、「同調圧力」と嫌悪するのも、同様に「空気が読めない」と言えるのである。

 

「空気を読む」ということは、相手のことを慮る行為であり、高度なコミュニケーション能力を必要とする。

より素早いコミュニケーションを取るためには「空気を読む」ことは必須であり、むしろ「空気を読み合う」ことは望まれるべき状態だと言える。

悪しき風潮は、片一方(もしくは両方)が相応なコミュニケーション能力を有していないがために「価値観の押し付け」が起こり、認識にズレが生じる。

結果、「空気を読む」ということ自体が悪者とされてしまっている。

 

 

これが、「空気を読む」をとりまく一連のイメージのからくりであり、

「空気を読む」を悪者にすることは「自分が空気が読めないこと」を公言しているにすぎないのである。